異族の文化をつきぬける


「高江・辺野古連帯 オカヤドカリの会」の機関紙、通信2号に発表した文章です。

翠羅臼さん、桜井大造さんらが発起人で高江や辺野古のドキュメンタリー映画上映、板橋文夫さんや不破大輔さんのミニコンサートなどを開催しました。わずか数年の活動でしたが、水族館劇場はじめ、芝居者たちが大勢合流しました。2019のさすらい姉妹「陸奥の運玉義留」はそんな中から生まれた琉球幻視行でした。ほんとに少部数発行でしたので、お目にとめた方も少ないと考え、ここに再録します。


異族の文化をつきぬける  桃山邑

 過酷な沖縄戦の一年後、折口信夫は音楽や舞踊、藝能の担い手たちが壊滅的に戦死してしまったことに痛恨の苦しみをこめた「沖縄を憶ふ」を発表する。その短文の結びには「あゝ蛇皮線の絲の途絶え—。そのように思ひがけなく、ぷっつりと—とぎれたやまと(やまとのうえに・・・と黒点のルビ)・沖縄の民族の縁(ルビ・えにし)の絲!—」とある。高名な古代を愛する文学者は強い思いで沖縄びとを血のつながった兄弟であると断言した。日本のふるい生活様式の祖型はこの南の島にこそ残っていると。敗戦によってアメリカの支配下におかれることを承知の上で書かれた嘆き。そこにこめられた複雑な感情をうけとめるのは琉球を独立した国家であると思っているぼくにとってもさほど困難ではない。藝能とは血や出自を異するまぼろしの共和国をながれてゆくことだから。

 翠羅臼さんから「辺野古・高江連帯オカヤドカリの会」の呼びかけ人にくわわってほしいと連絡があったときに、沖縄で反米軍基地闘争をになうひとびとに強い連帯の想像力があったわけではない。人間関係による直感がはたらいたといったほうが正しい。今年は正月元旦からもうひとりの曲馬舘時代の先輩である桜井大造さんと何年ぶりかで会い、ぼくや千代次はいっぽんの川からわかれていった支流がふたたび合流していくような予感にとらわれたのだった。この会の中心である反町鬼郎さんや、えまくにえさんとも旧知のあいだがら。たとえ集団をたがえ商売敵のような関係であったとしても底流に野外天幕芝居を継起しつづけてきた同志意識のような感情が流れていたのだろう。とおい昔ぼくは曲馬舘から芝居のけもの道にわけいり、たくさんの仲間とであい、協働し、同じ数だけ裏切りや離反をくりかえし現在の水族館劇場にいたっているが、いちばん最初の集団でたたきこまれた芝居者としての根柢を忘れたつもりはない。時代や季節はうつろいゆくけれど地上に圧倒的な非対称はますますひろがり、ロベール・カステルのいう「この世に用なき者」が大量にうみだされてゆく現実のなかで一座の夜会を張るということの意味まで漂白されたわけでもない。ぼくはこのところ、じぶんをごろつきと呼び、国家以前に成立した藝能のかたちを追い求めてきた。直截な言葉こそ使わなくなったが、ぼくの芝居にとって国家は永遠の敵である。政治的であることと文化的であることは相反することなのか。イデオロギーで合致しない一点だけで協働が不能になるほど現在の世界アトラスはシンプルに色分けできるとも思えない。幾重にもおりたたまれたひとびとの無念をときはなつ契機をやどす宴をぼくは藝能という言葉にたくしているが、曲馬舘もまたみずからの集団名に「娯楽の殿堂」と荊棘の冠をいだいていたのを思いだす。そこには底辺にむかってきりもみしながら芝居のけもの道を深化させようとする意思があった。

 昨年、サーカス研究(ご本人は興行師と呼ばれるほうが性にあってるとおっしゃってたが)の大島幹雄さんと楽しい対談をしたときに木下サーカスにかつてあった足芸「葛の葉子別れ」がもつ見世物としての艶やかさや、革命と密接につながってゆくメイエルホリドのスペクタクル演劇など、話題が縦横にひろがっていった。そのなかでふたりが共通してこだわっている裏テーマを北方志向ではないかとぼくが直言したときに、宮城県うまれの大島さんは即座にうなづき、じぶんはそれに敗走というイメージを重ねると返答した。大島さんが観てくれた芝居は、津軽から糧をもとめて北海道にたどり着き、サハリンを経て韃靼海峡をわたり、赤軍パルチザンせまるニコラエフスクへと流された少女の物語。銃火のなかブーメランのように網走にもどるしかなかった貧しいひとびとの群れ。連続射殺魔として国家に処刑された永山則夫と姉と母のクロニクルだった。そこから話題は敗者の想像力という領域にはいっていったのだが、翠さんや桜井さんも北海道でそだっており彼らが牽引していた相当はげしい集団の流儀に耐えられたのも、じぶんなりに身体感覚としてしみついていた北方志向だと確信している。ぼくが参画した唯一にして最後の芝居もまた昭和天皇爆砕をもくろんだ、現実の虹作戦をあつかった過激なものだった。アイヌモシリで民族差別をかんがえてきた東アジア反日武装戦線・狼部隊の大道寺将司さんと翠さんたちが同世代であり、同じ場所にいたというのは偶然ではない。

 だがいっぽう、この世はたくさんの偶然でもなりたっている。ぼくは建築もまた藝能であるとかんがえ、芝居者と建築職人とを自由に往還してきた。かつて寝食した飯場は津軽から出稼ぎにきたひとびとで占有され、数十年経ったいま建設現場でであう仕事仲間は圧倒的にウチナンチュが多い。都市下層労働の構造は高度経済成長以後、バブル崩壊を経て確実に変容してきた。投入される使い捨ての若い労働力は貧しい地域から吸い上げられる。バブル期のフィリピン、現在のベトナム、中国などアジアの辺境はすべからく供給地にされてきた。ブローカーがおくりこむのは合法か非合法かを問わず、つねに富の分け前にあずかれない側の人間たちだ。ぼくの住居である横浜鶴見には沖縄系南米人がたくさん居住している。かれらは近代明治が移民政策で南米におくりこんだ棄民の三世たちだ。故郷の島から移り住んだ血縁が形成する仲通りという大きな沖縄ストリートをよすがに生き抜くために戻ってきたのはまちがいない。かれらやぼくが住んでいる街はかわむこうと呼ばれる京浜重工業ベルトの埋め立て地。この鶴見川にかつて在日韓国・朝鮮人のバラックが簇生し、津軽から集団就職してひとりぽっちになった永山則夫が働いていた場所だ。信じられる祖国などないと明言する金の卵が密航をくわだて監禁されたままみつめた沖縄の海。『無知の涙』に認められた沖縄への共鳴までぼくは描写しきれなかった。

 そんななかでの辺野古・高江に目をむけないかというお誘いだった。台本書きとしてのいろいろなファンタスムスが大きな円環の輪をたどったような気がした。この幻想は目くらましのようにぼくをとらえて離さない。十代のころ衝撃をうけた、NDUのドキュメンタリー『沖縄エロス外伝』のなまなましい映像がフラッシュバックする。復帰前の歓楽街。Aサイン酒場にうごめく娼婦やヤクザたちモトシンカカランヌーの不穏な気分。そこには三星天洋の旗のもと、米軍基地襲撃の潜勢力が滲みだしていた記憶がある。マルコムX、チェ・ゲバラ、LKJ。革命は銃口からしかうまれないとするかつての暴力論と世界の更新への希求は無縁ではなく、燃えさかる炎や荒々しい身体を舞台に登場させてきた芝居者たちのみた夢魔の縁へもつながっていたはずだ。それは忘れたほうがいい無何有の理想郷にすぎなかったのだろうか。グローバル化を推進する強大な権力がふりおろす鉈は、いつでもちいさな弱いものの頭上に踊り、怒りは煮詰められて蒸発させられてしまうのだろうか。インターネット社会というあたらしい現実モデルに対応するメキシコ・サパティスタ民族解放軍のような非暴力への想像力こそが、この国で涵養されていかなければならない課題に思える。そこに至る遠い道のりの理路にぼくたち水族館劇場のめざす藝能の一座建立がどのようにからんでいけるのだろうか。政治的な絶望が深ければ深いほどみはてぬ夢にまどろみつづける芝居者でありたいと考えている。同時にぼくは経済支配のからくりが集中しその矛盾を背負わされた日雇い労働者でありつづける。シンボリック・アナリストと経済学者は名付けた格差社会の上部階層に対し、日々の暮らしさえままならないほど追いつめられたルーティン肉体労働者はそれでも仕事に手を抜くことはない。笑いながらこの世の不平等を憂い、イデオロギーで他者を腑分けするのではなく、3Kと忌避される労働に流した汗を共有する仲間とクールにつながるアンチナルシスの世界認識を獲得する。そこにみえるのは稼ぎをどれほど削られようと絶対にひるまない誇りである。その矜恃こそとおい昔から受け継がれてきた藝能者の血流なのだと信じている。

 芝居者は夢みるだけでなく、どんなに貧しくともじぶんたちのヘテロトピアを構築してきた。都市下層のふきだまりに。海やまのあわいのなにもない野原に。じぶんたちの歩いてきた道のりや思いを、じぶんたちとは異なるひとびとのこころのどこかに留めておいてもらうことを願いながら。