鬼海弘雄「人間の海」に寄せて


2017年の「盜賊たちのるなぱあく」で鬼海さんとの縁をつないでくれた長瀬千雅の文章を掲載いたします。


鬼海弘雄「人間の海」に寄せて   長瀬千雅

 なにがどうなって「盜賊たちのるなぱあく」で写真展「鬼海弘雄『人間の海』」を開くことになったのか、もうあんまり覚えていない。桃山さんは、長瀬があいだをつないだと言ってくれるけど、私がおつなぎする前から、鬼海さんと桃山さんは知り合いだったんじゃないかという気すらする。それぐらい、横浜・寿町にひるがえる鬼海さんの写真は、水族館劇場の芝居と共鳴し、拮抗していた。

 水族館劇場の野外舞台に初めて鬼海さんの写真が展示されたのは、2017年の夏だ。水族館劇場は「ヨコハマトリエンナーレ2017」に参加した。寿町の一角が、公共施設の建て替え工事のあいまのひと夏明け渡され、芝居小屋、古書店街、空中回廊、野外スクリーンなどからなる「巨大廢園」が出現した。それが「盜賊たちのるなぱあく」である。

 その前年、桃山さんから構想を聞いたとき、ものすごく高揚したことを覚えている(劇団員でもないのに無責任にごめんなさい)。

 桃山さんと鬼海さんの初対面の場に私は同席していないのだけど、二人は意気投合したようで、鬼海さんが「るなぱあく」に参加してくれることになった。

 鬼海さんの写真は、写真集『東京ポートレイト』から35点を鬼海さんが自ら選び、100×100センチ大のパネルにして、空中回廊の側面に設置した(そのパネルが、今みなさんがご覧になっているものだ)。雨風にさらされる屋外展示だ。キュレーターだったら、鬼海さんの写真をのざらしにするなんてと躊躇したかもしれないが、私はど素人なので、屋外めっちゃいいじゃんと思って、パネル制作を進めていった。この原稿を書きながら当時のメールを検索してみたら、鬼海さんもうれしそうだった。パネル制作を請け負ってくれた写真弘社さんが、雨風と日光に強い紙を提案してくれた。「人間の海」というタイトルは、鬼海さんがつけた。

 鬼海さんとは、以前、週刊誌「AERA」で働いていたときにご縁があった。

 私は就職活動を早々にドロップアウトして、花卉市場でバイトしたり派遣で働いたりしているうちに、なぜか「AERA」編集部にもぐりこんだ。仕事は「現代の肖像」という人物ルポの編集だった。担当したのは2007年から2012年1月まで。雑誌ジャーナリズムやノンフィクションの一線級の書き手がごりごり書いてくださっていた。

 あるとき、ノンフィクション作家の山岡淳一郎さんが、鬼海さんを編集部に紹介してくださった。「鬼海さんが仕事したいって」みたいなことを言われて、写真デスクにつないだんじゃなかったかと思う。デスクは最初、ちょっと疑っていたと思う。「あの鬼海さんが? ほんとに撮ってくれるの?」と。「現代の肖像」は写真にも力を入れていたし、いろんな写真家に依頼していたけれど、鬼海さんはマエストロすぎて、「鬼海さんに撮影を依頼する」という発想がなかった。

 鬼海さんとのいちばんの思い出は、東日本大震災のあと、「現代の肖像」で南相馬市長(当時)の桜井勝延さんを取材することになり、山岡さん鬼海さんと3人で一泊の取材旅行に行ったことだ。

 ここで気の利いたエピソードの一つも披露できるとよいのだが、そんな話は全くない。車中が楽しかった感触はあるのだが、何をしゃべったか思い出せない。覚えていることといえば、安全運転を唱えながらレンタカーのハンドルを握っていたこと、酪農家さんを訪ねたときの、車を降りた瞬間の砂利の感じ。牛舎。市役所の張り紙。晩ごはんどうしようかな、明日の朝何時集合って伝えればいいかなと考えていたこと。雑誌のヒラ担当なんてそんなものだ。ただ、写真ページのゲラが出たときに、通常は縦長の長方形でレイアウトされる写真が正方形だったのを見て、「鬼海さんの写真だ」と思ったのを覚えている。鬼海さん以外に正方形が許されたのは見たことがないから、あれはある種の特別待遇だったと思う。写真そのものもとてもよかった。だけど、雑誌のフォーマットはいかにも狭苦しくて、以前にどこかの美術館で見た、白い壁にどーんと展示された鬼海さんの「肖像」写真の迫力とは比ぶべくもなかった。それから半年後に、私は「現代の肖像」の担当をやめてしまった。

「盜賊たちのるなぱあく」には、「港のバーバー」という、無料の床屋さんが店を出していた。福岡市で美容院を経営する渡邊友一郎さんが、桃山さんの呼びかけに応えて参加されたものだ。私はこの「港のバーバー」というアイデアが大好きだった。

 実は当初、鬼海さんに参加してもらいたいけど、まだ何をするかは決まっていなかったとき、一瞬だけ「写真館」をやってもらえないかというアイデアがあった。「るなぱあく」には寿町の人たちも出入りするから、おっちゃんたちを撮ってもらうのはどうかと思ったのだ。「港のバーバー」から連想した部分もあったと思う。そのアイデアは鬼海さんに却下された。鬼海さんにとって写真を撮るとは、そういうことじゃないんだと。別に気を悪くされたわけではないし、それは私もわかっている。ただ、「やっぱり私は、鬼海さんの写真をちゃんとはわかっていなかったんだな」と思った。

 今でも、「鬼海さんが何を撮らなかったか」に思いを馳せる。カメラを持った鬼海さんは、何を待っていたのか。何と出会いたかったのか。私が浅草寺の境内を歩いていても、鬼海さんは声をかけない。声をかけられたいわけではないけれど、死ぬまでに自分なりに、自分の「王国」を築けるように生きていきたいと思ったりする。

 いつだったか、鬼海さんが亡くなったあと、桃山さんと電話で話したときに、桃山さんがぼそっと、鬼海さんが俺を撮りたいって言ってくれたんだよね、と言うのを聞いた。正確な文言じゃないかもしれないけど、そういう内容だったと思う。言っても詮ないことだけど、鬼海さんが撮った桃山さんが見たかった。かなわないと思うと悔しい。だけど、その半面、桃山さんは水族館劇場という、桃山さんにとっての「人間の海」を今も泳いでいるわけだから、実現しなくてよかったのかもしれないとも思う。